広島県立広島皆実高等学校T
総合制皆実高等学校
1949(昭和24)年4月30日 広島県下46校の一つとして総合制・男女共学制 による広島皆実高等学校が発足した。前年,占領軍軍政部「オズボーン声明」が出され, 三原則即ち総合制・地域制(学区制)・男女共学制が実施されるに至った。広島市内の公立 高校としては国泰寺高校(鯉城)観音高校(芸陽)皆実高校(有朋)の県立三校と舟入高校(二葉) 基町高校(城北)の市立二校,計五校が誕生した。 皆実高校の母体としては 元広島県広島工業高等学校(機械料・電気科・建築科・土木科) 元広島市工業高等学校(機械科・電気科・工業化学科・造船科) 元広島県広南高等学校(旧広島県立広島第二高等女学校) 元広島県有朋高等学校(旧広島県立広島第一高等女学校) 校舎は 出汐町(普通科・土木科・工業化学科・造船科・生活料) 千田町(機械科・電気科・建築科) の二カ所であり,総合制とはいうものの寄り合い所帯であることは否めなかった。昭和26年当時の風景 1953(昭和28)年の単科制高校になるまでの四年間,三原則に対する様々な論議を 呼びながらも,校内では校章の制定,皆実高校新聞の発刊,生徒自治会の発足,PTA結成, 運動会・文化祭等,活発な動きが見られる。また運動部の活躍も目ざましく,陸上・卓球・硬式 庭球・バスケット・バレーなどは広島県のみならず,中国地区,全国レベルで活躍している。 1952(昭和27)年11月2日工業部生徒七名が三段峡で死亡する惨事が起こった。 現地には今も石地蔵尊が安置されている。
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いずれも1950(昭和25)年当時のクラス写真であるが、制服・制帽がまちまちで あることからも、総合制男女共学になって各校から集まってきたことがわかる。 1949(昭和24)年に高校三原則によって出発した総合制の皆実高校は,一員で言えば 寄り合い所帯であったという。生徒数1800人で広島県では一番大きな学校であった。 校舎は出汐町と千田町に分かれていたことは致命的であったろうと思われる。 そうした中でも運動部の活躍は勿論であるが,文化系クラブでは 1949(昭和24)年 報道部県高校新聞コンクールで第1位。以後7連勝を飾る 又この年の8月音楽部がNHK広島放送局に出演。当時100余名の部員で活発な活動を していた。 1952(昭和27)年 文芸部話「構図」県高校文芸誌コンクールで1位となる。 こうした総合制高校も1951(昭和26)年頃から分離独立の動きが見えはじめ, 1953(昭和28)年工業科が分離し広島工業高校として復活することとなる。 単科制皆実高等学校 再出発−単科制皆実高等学校 1953(昭和28)年4月1日工業科は広島県広島工業高等学校として分離し,本校は 普通料・生活料を併設する広島県広島皆実高等学校として再出発した。 従来の総合制時代の規模は大幅に縮小され,等三代数田猛雄校長は品位ある校風の創造, 感激多い学園生活への企画・工夫・実行,勉強と運動の両立,誠意と友情の育成などを説いた。 皆実高校では「組・クラス」のことを「ホームLと呼ぶが,1954(昭和29)年度からであろ う。校内,校外において様々な改革・創造が行われた。週五日制が週六日制になり,新生徒会 が結成され,現在の皆実高校の基盤がこの頃に作られていった。
1953(昭和28)年当時の校舎風景(上下とも)
また,過去50年の歴史と8000の会員を擁し,全国各地の支部活動も活発であった県女 同窓会「有朋会」と1951(昭和26)年に発足していた「皆実同窓会」は,「皆実有朋会」として 1954(昭和29)年に合併し,現在も活発な活動が行われている。
県女同窓会(有朋会)と皆実同窓会とが合併し、新しく(皆実有朋会)となった。 1954(昭和29)年合併後の第1回総会
単科制皆実高校第1回卒業式 1954(昭和29)年3月1日 被爆から10年後の1955(昭和30)年8月5日,「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」の 除幕式が行われた。旧下中町の母校正門跡,現市医師会館南側の百米道路緑地帯の樹陰に建て られ,あの日あえなく散った岡校長以下297名の職員・生徒及びその後の原爆症で犠牲者の 数に加わっていった卒業生の盤を慰めるために,毎年8月6日に追悼慰霊祭がとり行われて いる。

1955(昭和30)年県女正門後に建立された「追憶の碑」
広島県立広島皆実高等学校 T 終わり